沖縄に移住した理由と出来事

川島陽子 ・ ひだまりみかん

2007年02月07日 22:26

私が沖縄にはまったのは2000年。沖縄に独特の文化や歴史があると知ったから。それからどんどん自分で沖縄関連の本を買ったり、調べたりしているうちに、その魅力にとりつかれて、いてもたっても沖縄のことを考えていると言う典型的な沖縄病に掛かってしまった。沖縄の文化や歴史・方言・風習・音楽・食べ物・・・それは知れば知るほど個性的で奥深く、調べても調べても調べつくせられない程。
それから何回も沖縄に遊びに行って、色々な島に行ったり、エイサー(沖縄風盆踊り)や、やちむん(焼き物=陶芸)に触れてはもう取り返しのつかないぐらいの重症になっていた。
自分で調べられるだけの事は調べて、いつか何かの為に使おうと思っていた、一定期間仕事がなくても困らない程度の貯金、住むのと観光するのとでは全然違うと言う現実・・・それらを全て踏まえた上で不安もあったし、でもそれでもどうしても今、一度住んでみないと一生後悔する、一生後悔するぐらいならこの先に何があっても、一生後悔するぐらいなら耐えられると思って、2002年の11月に那覇に引っ越しした。
      
とりあえず、どうせ沖縄に住むなら沖縄でしか出来ない事をしようと思った。それなら迷わず選んだのが、陶芸だった。沖縄の陶器は壺屋焼きと言って、シーサーなど、個性あふれる作品が揃っていて、沖縄の文化の中でも最も惹かれた。全く陶芸の経験がない私が簡単にやとってもらえるとは思ってもみなかった。でも私は、陶芸に関われるなら、雑用でも何でもいい、壺屋や読谷(どちらも陶器の里)の店を一軒一軒回って、絶対に陶芸の修行をさせてもらえる場所を探そうと意気込んでいたが、そんな苦労は全く必要なかった。沖縄に引っ越してたったの1週間で、自宅から5分の場所にあっさりと陶工見習いの募集の張り紙を見つけ、その場で採用された。沖縄は車の教習所の費用が10万円ほど実家より安いので、ついでに車の免許も取ろうと思っていて、自動車教習所に通いながら行く事に決まった。そんな悪条件で先生は雇ってくれた。
それから私は忙しくなった。朝は自動車教習所、昼からは陶芸、毎日残業して21時頃までひたすらこの工房に伝わる伝統的なシーサーを作り続け、それが終わったら、国際通り(那覇のお土産屋が並ぶ繁華街)に行って色々な人の作品を観察し続け、何か自分の作品に生かせる事はないか考え続けていた。
最初の目標は、沖縄に住む事、次の目標は陶芸の仕事につく事。でもこれらはあっさりと叶えてしまったので、その次の目標が、「一目で私が作ったと分かる作風を確立する事」に変わった。
 
この工房は、17人ほど働いていて、みんな、私のことをすごく気に掛けて親切にしてくれた。みんな気が強かったけど、同じ志を持っている人達ばかりだったので、すごく気が合って、残業中にいつも宴会をして泡盛を呑みながら作陶するなど、楽しい想い出がいっぱい。でも私があまりに不器用だったので、毎日毎日叱られてばかりいて、私がオリジナルで作った作品に対する評価はとても厳しい物だった。
この工房に伝わる伝統的なシーサーは、私が作ると下手で遅いし、しかも焼いたら割れる。焼き上がった作品が次から次へと割れて注意されるのは毎日毎日いたたまれない気持ちだった。
そこで考案したのが、単純な形の頭だけの可愛らしい感じのシーサー、現在の自分の作風の原点となっている、ミニチブル(方言で小さい頭)シーサーだった。これをどうしても売りこみたいと思って、先生の許可をもらって、那覇のお土産屋を一軒一軒回って、持ち込みをして、売り込みに行って注文をとって来る事が出来た。
私の作品は賛否両論で、反応は様々だった。名刺を突き返されたり、大手のお土産屋などは、社長と常務と従業員にずらりと囲まれて一人で売り込みをして交渉したり、でも何故か、どうしてもこれがやりたいと思っている時の行動力と言うのは、そんな中に置かれても全然平気でただ売る事に夢中になっていた。
こんなの売れない・・・このぐらいはよくあるセリフで言われても平気だったが、私が一番嫌だったのは、自分の作品の事を分かった様な事を言う人々。その人達は、自分で物を見る目があると思いこんでいる人達だった。だから平気で人の作品を頭から否定する事が出来る。でもそれも全て黙って聞いておいて、どの店がこんな考え方で経営しているのだなと言う事がだんだん分かってきた。 

でもそんな時、目を付けたのが「漆喰」と言う素材だった。考えてみれば、私の好きな作家はみんな漆喰でシーサーを作っている。私も漆喰をやってみたい・・・でもまだ9ヶ月しか陶芸をやっていないのに今、漆喰に転向するのはあまりに早すぎないか・・・と思いながらも、漆喰への気持ちはどんどん高まって行った。とりあえず、自己流で漆喰で作ってみようと思い、漆喰の製造元を調べて動きだしたその翌日、私は、陶芸の工房を寝坊して遅刻して先生を怒らせてしまった。漆喰をやりたいと思いながら陶芸で作りたくもない伝統的なシーサーを作っていても熱が入らず、焼くと割れるし、遅刻はするし、やる気もないみたいだし・・・これからどうするか?と聞かれたので、もうここでは続けられないなと思い、今日で辞めます。と言って泣く泣く陶芸の工房を辞めるになった。先生にはろくに挨拶も出来なかったが、後で手紙を書いてきちんとお礼を言って、その工房をあとにした。
  
陶芸が出来なくなった私はもう、漆喰で作品を作る事しか道は残されていなかった。でも自己流で作った作品はどれもひどい出来映えで、とても自己流ではやっていけないなと思い、また働きながら修行させてもらえる場所を探した。けど見つからなく、例え見つかったとしても、自分の作りたくもない、その工房の定番商品を仕事だからと言って作り続けるのは、また同じ事の繰り返しだと思った。それでも試行錯誤して自己流で何とか作っていたが、とても売り物にならない物ばかり出来上がっていたが、2週間程経った時に、ふと肩の力を抜いて適当に作ってみて、適当に色を塗ったら何とか売り物になりそうな物が出来上がって、コツをつかんだ。陶芸の工房を辞めたのが9月3日だったが、9月末には那覇のお土産屋に売り込みに行った。私はもう、どこのお土産屋に売り込みに行くかは決めていた。自分の作品を大切にしてくれる店、大切に展示してくれる店、作家を大切にしてくれる店がどこの店かと言うのは、陶芸の工房にいた時に把握していたので、迷わず2軒の店を選んで売り込んだ。その店は、私をとても暖かく受け入れてくれて、その内の一軒の店は、各5個ずつぐらい、全部で58個ぐらい注文をくれた。
    
そんな感じで売れ行きを心配していたが、少しずつではあったが、売れて行って、漆喰に転向して3,4ヶ月の間に、追加注文や、新規で店からの仕事に依頼までやってくる様になって、注文に困る事はなかった。
その頃の私は、一日24時間、片時も休まず、夢にまで出てくるぐらい、新しい作品のアイデアを考え続けていた。だから次々に新しい作品が出来上がって行った。ちょっとでも絵の具の色が気に入らない、この材料が欲しいと思ったら、バイクで沖縄中を走り回り、材料を揃えて、試行錯誤していたので、いくら注文が来たと言っても利益なんてほとんどなしに近かった。
そんな頃、陶芸の工房に、私の漆喰の作品を持って行って先生に見せたら、あれほど出来の悪かった私に、「もう一度戻ってくるか」と言われたのは本当に励みになった。
あの当時の私の服装は、安物のTシャツに、島ぞーり(沖縄風ビーチサンダル)、短パンをはいて眼鏡を掛けて、ストレスから体重もかなり増えていて、外見など全くおかまいなしだったし、そのゆとりすらなくて、ただ新しい作品が出来ないか、何かいいアイデアがないかをひたすら頭が壊れるぐらい考え続けた・・・。
       
それからの事は、あまり語りたくないので、語らないが、沖縄から帰って来た理由は、「一目で私が作ったと分かる物を作る」これが叶ったので、次の目標が何か分からなくなって、作品がそれなりに売れて評価を得たので、だんだん自信過剰になって来た。そんな自信過剰のまっただ中だった時、沖縄で有名な版画家の展覧会に行って、徹底的に才能の差を感じてうちのめされた。
それからはもう、作品を作る意欲は全くなくなった。作ったとしてもろくな出来じゃない、腕が落ちたのかなと思って、出来上がる作品はひどい出来映えの物ばかり・・・それでも店に出荷していたが、もう、こんなお金にならない事をいつまでも続けても仕方ないし、目標がなんなのかよく分からなくなったし、一人暮らしの寂しさ、見知らぬ土地での心細さ、沖縄の狭さ・・・そういう物に耐えられなくなって、実家に帰って来た。

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